誰に読ませるわけでなく

祖母の家が売れた。

正確に言うと、売れることになった。引き渡しにはひと月ほどある。

 


山間の谷を縫うように流れる川の、更にその川沿いに点々と結ばれる集落の中の一つである。昔は小さな宿で、市も立ったと聞く。私の記憶では、三十軒ほどが並ぶその道筋に、旅館が一軒あった。床屋という屋号の家もあり、生鮮食品以外は何でも売っている食料品店も、電話局もあった。

生鮮食品は、野菜なら各家で必要分は作り、作らないものは融通しあっていたのか。魚は毎日、軽トラックで海辺の町から行商が来た。触れの曲は[おやじの海]であった。

音割れのしたイントロが近づいて来ると、村筋の家の主婦たちは割烹着の裾で水仕事の手を拭きつつ、がま口をポケットに道へ出る。祖母もそうだった。私はそんな祖母の後について出るのが好きだった。

お目当てがあるのではない。買ってほしいものとて、子どもの目にはないのである。ただ、その賑わいが面白かったのである。そして、村のおばさん達は、久しぶりに見る私を、それを言わねば次の言葉が出てこないかのように「んまあ〜大きいなって〜」と言い、次には「なんべえなったやあ(何才になったの?)」、または「お父ちゃんに似とるがの(お父さんに似ているね)」と来る。

何となく、ちやほやされてるような感もあり、面白がられている感もあった。今なら分かる。おばちゃん達にとって、帰省の度に少しずつ大きくなって行く孫世代の子どもなど、格好の話の種、まさに大好物だったのである。時は昭和30〜40年代。汽車駅からたっぷり1時間はバスに揺られて辿り着く村なのだ。

 


とは言え、0番国道沿いにあり、車の流れは細長い村をなぞって尽きることなく日夜続いていた。近くには有名な温泉地もあり、今では世界的に有名な和牛の、種牛の産地でもあった。村には牛を飼う家も何軒かあり、家の前の未舗装の道を牛が糞を落としながら歩いて行く。藁の混じった大きな糞を、トラクターが踏んで通る。誰も気にしない。誰が洗い流すかなど、考えもしなかったろう。私も考えなかった。夕方には、裏の河原を牛を追う農家の人たちが、ゆっくりゆっくり歩いて行く。牛と同じ速度で、川砂利を踏んで行く。

 


村の道に沿って、水路が一筋流れている。もちろん、人工水路である。水深は通常15センチほどだったろうか、流れは早い。道沿いの各家に一つずつ洗い場が割り当てられており、半畳ほどのその場所で、野菜を洗い、西瓜やラムネを冷やし、打ち水をすくう。水路は村の入り口で、Y川から分かれて引かれており、生活用水が、それこそ無窮に得られるシステムなのである。

道から3段ほど降りて洗い場にしゃがむと、目の前に石積みの壁面が昔のままそこにある。これを積んだ人々の先見の明、気力、構想力、そんなものに思いを馳せてみる。子どもの頃の記憶でも、この流れの水は冷たい。これだけで、十分ラムネが冷やせるのである。

ラムネは、祖母の家とその村とその時代を結びつけるに欠かせないアイテムであった。私が帰省する度に、斜め前の家のおばあさんがザルいっぱいのラムネやコーヒー牛乳を持って来てくれたのである。

ビン入りであることは言うまでもない。