天然ジュレ

 ジュレという言い方であれ、ゼリーという言い方であれ、今ではああいった食感のものは珍しくないし、果物をかたどった容器に目も舌も喜ばせるみごとなスイーツが入っているものを見てもさして驚かない。昭和の中頃、一般家庭では〈ハウスゼリーミックス〉や〈ハウスプリン〉などが、定着しつつあったのか?どこの都市からも遠い田舎町の私の生活にはまだ入って来てはいなかった。しかし、今思うと、あれって天然ジュレだよなぁ〜と思うものがある。みのがきである。

 美濃柿ではない。漢字を当てるとしたら〈実柿〉かな?それは冬の日、紙箱に規則正しく10個ほども並んで祖父のもとにやって来た。近くの村の知人が、祖父の好物だと知って届けてくれたのである。その男性の家で作ったもののようだったが、干し柿のように手間をかけて作るものではないらしい。みのがきは柿そのものの形のまま熟れきって、少し透けるようでさえあった。全体が満遍なく朱々としてぴんっと張っている。祖父はそれをてっぺんから皮を少しずつ破り、スプーンですくって食べるのである。まさにえびす顔だった。「やらかいや?(あげようか?)」物珍しげに眺める小さな孫に祖父が言う。私は首を横に振る。お相伴に預かりたかったのではない。ただ単に珍しかったのである。

 「食ってみりゃあええにい。うみゃあにい。(食べてみればいいのに。美味しいのに。)」じゅるっ!と果肉をすくったスプーンを吸い、その甘さと冷たさに祖父は集中し始めた。時折スプーンからどろりと果汁が糸を引く。祖父のスプーンは止まらない。私には何が美味しいのか分からない。その情景を思い出すたび、冬の夜の湯上がりの寒さとともにあの柿の実の朱さを思い出す。あれから50年以上経って、私は未だにみのがきを食べたことがない。

 昔の鍵は小さい。小さくて軽くて薄い。今時の、大きく厚くツルツルと滑らかで合鍵不可のハイスペック鍵と比べると、何だかロッカーの鍵のようにも思える。祖母の家の鍵である。鍵穴に挿せはしたがなかなか回らず、たまに通る人に怪しまれない程度のもたつき方で何とか開けた。

 先に村に着いて待っていて下さった運搬業者さんと2階から長持ちを下す。中は空で、大きさの割には軽く、難なく玄関に出せた。丁寧な梱包でくるまれて車に積み込まれる。90年近く前、近郷からここへ嫁いで来た祖母の輿入れ道具だ。今日、祖母自身も行ったことのない私の家へ、5時間を揺られて行く。

 ナフタリン臭い箪笥の引き出しを一段一段開けていくと、一番下の引き出しに、昭和31年の新聞が敷いてあった。毎日新聞8月11日土曜日、“日ソ交渉早くも大詰め”  “ソ連両首脳と会談/重光全権が直接打診” 、そして「運輸相は国鉄運賃の値上げを一割五分で了承」し、社説では「値上げに先立つ努力をせよ」と求める。破れそうな紙をそ〜っと開くと、下段に小さく「興安丸がナホトカで待つ帰国者114名を迎えに行くために、舞鶴港を出港した」ことが書かれている。昭和31年、私は生まれていない。父は22才、母は19才、祖母は46才。

 

 まだ車内に余裕があるので、この際、気になる物があれば何でも運びますよ、と、良心的な業者さんは良心故に危ないことをおっしゃる。悪魔はいつも親切な顔をしてやって来る。私のダメ人間のフェーズの始まりである。

 昭和テイスト満載のプラスチックの菓子入れや、祖母が使っていた壊れかけの裁縫箱、確かに鳴っていた覚えのある箱型ラジオなど、それを見れば記憶の底のおぼろな場面が、澱のようにあるかなきかにふわっと浮かんでは消える。私が選んだのは、祖母が冷麦を盛っていた青いガラス鉢だ。子供が素麺より冷麦が好きなのは、ピンクと緑の麺が一本ずつ入っているからに他ならない。しかし、素麺に比べて冷麦の方がワンランク安いことは大人になってから知った。腹一杯食べさせることを第一としてきた祖母が選ぶのは、当然冷麦だったわけだ。

 ガラスとはいえ、子供が走り回るような家でない限り、そうそう割れるものではない。私は食器などが割れると、壊れたのではなく、役目を終えたのだと考えることにしている。が、この調子だとこちらの方が先に役目を終えてしまいそうである。「死ぬまでに使い切れるか判らんなぁ、、、」と思いながら、私は更に6個のプラッシーのコップにプチプチを巻いた。

 

 業者さんの車を見送って戸締りをし、前の水路で汲んだ水を持って墓に参る。ゆっくりと村を一周し、動画に収めた。小春日和から今は薄曇り、鳥の声もしない、ただただ静かだ。取り壊して歯抜けになった家の跡地を川からの風が通り、まばらな秋草が揺れる。もう一度家に入り、祖母の立っていた台所と祖父の座っていたコタツを見た。ブレーカーを落とし、全てのカーテンを閉めて光を遮断し、埃を被ったちびた下駄の横で靴を履く。外は薄日、向かいの家には既に雪垣が組まれてあった。私は外した表札の跡を見上げ、そして、薄く軽く回りにくい鍵を閉めた。

Y駅、そして9号線

Y駅を出ると、目の前はロータリー広場である。ロータリーと言っても、直径1mほどの円型フラワーポットが設置されているに過ぎない。しかし、これがあるだけで広場に入って来る車もバスもタクシーも、全て時計回りに流れることになる。バスはぐるりと回ってそのまま、時計で言えば10時の方角のバスプールに入庫する。

 子どもの目の高さにはだだっ広い広場に思えたが、今見ても十分に広い。元々雪除け地を計算に入れてのことだろうか。その広場を囲むように、バス営業所、パーマ屋、食堂、物産店が並ぶ。今、営業しているのはバス営業所だけである。

 駅を出て真っ直ぐに100mほど進んだどんつきに商店街が、線路と平行に伸びている。はずだったが、ない。あるはずの店はバラス敷の空き地になり、背後に小さな山が見えている。その中腹、色付きかけた樹木の間に、赤い鳥居が細く埋もれている。ということは、上に登る坂なり階段なりがあるんだろうな、など思いながら、少し町筋を歩いてみた。

 シャッター商店街ではない。個人商店の酒屋や赤青白のサインボールがうねうね回る理髪店、婦人向けの洋品店の他、メリヤス工場も営業していた。カッシャンカッシャンカッシャンと機械を動かす音がしている。そう言えば、このYに限らず、地方の小さな町にはよく繊維関係の工場がある。

 

 バスの乗客は4人であった。いずれも70代と思しき人たちで、会話によると病院に行く、又は病院から帰るということらしい。山の多いこの地方にあって、この辺りは平野と言えよう。川筋に沿って町ができ、商店や信用金庫、地元企業の社屋が並んだ町筋の周辺には住宅地、それを抜けると田んぼが広がる。山並みを望みつつ、空は広い。橋を渡ると、その広い空ににょっきりと公立病院の10階を超える威容がそびえる。足元には午前の日差しを照り返して、川面が白く光っている。今日は小春日和だ。

 川を左手に見ながら、バスは平地から少しずつ山間部に入って行く。次第に山が近づき、山裾から上へと広がる田んぼの間に、農家が点在する。ひつじ田の若い緑を区切る畦は刈り込まれ、この辺りは世代交代がうまく行われているのかと思わせる。右手の道路沿いにも家は多く、車窓から見る限りでは空き家や伸び放題の庭草も見られない。柿の実が朱い。いつの間にか、乗客は私一人になっていた。

 次第に上り坂になって行く道が、ループ橋に入って一気に標高を上げ、時計回りの弧を描き切ると、バスは山の中に入って行く。両側を山に挟まれ、舗装道路を走っているのに、山をかき分けて進んでいるような気になる。しかし道はすぐに開け、左前方に広々とした高原の広がりを見るのである。ここはスキーやキャンプ、山菜採りなどで季節問わず、近隣地域や都市部からの観光客を呼んできた自然の恵み豊かな地だ。

 私も一度、ここにキャンプに来た。確か高校1年の夏の課外授業だったと思う。その時の一番の記憶は、自然の恵みよりキャンプ飯よりフォークダンスより、夜中にトイレに行った時の、トイレの白壁一面に貼り付いた大小様々な蛾の大群である。よくもあそこで、しかも夜中に、更に懐中電灯の灯りで用を足せたものだと、今なら思うが、当時はキャンプ場にトイレ設備があるだけでも十分ありがたかったし、利用者ファーストの待遇だったのである。

 

 高原を抜けると、山が一段深くなる。右手に村も無くなり、落石防止の金網に覆われた山肌を避けるようにバスは進む。川は細く岩がちになり、谷底のようだ。目を上げると、屏風をドンドンドンと置いたように重なり合った山々が前方から迫ってくる。この辺りは空よりも山が大きい。誰も名勝地として褒めそやさないけれど、これはまさに景勝と見る間に、バスは次のトンネルに飛び込む。

 いくつものトンネルと小さな古い城下町を抜け、ダムの横を通り過ぎた先に川沿いの村々が現れる。目の前は難所、H峠。祖母の村は、峠の麓にある。

 

 

 

 

 

家財

家を明け渡すに当たり、家財を始末しなければならない。空き家となって20年近くが経つ家である。折々、少しずつ持ち出してはいたが、とても追いつくものではない。そもそも、「これは使えそうだ」と思って持ち帰るのは、ため込まれた粗品のタオルやビニール袋だったりするのが、ケチくさいことこの上ない。自分のスケールを再確認する格好の一例である。

家族親戚一同は、何でも持って行ってくれと言う。自分が持ち帰っても置き場所も使い道もすぐにはないが、十把一絡げに廃棄物扱いにされるのも、心のどこかに引っかかるものがあるのだろうか。私は引っかかる。

祖母の存命中から、いずれは貰い受けたいと思っていたものが2点ある。扇風機とアイロンである。どちらも昭和30年頃のものだと思われ、3枚羽の扇風機にはタイマーが無く、やたらと重い鉄製のアイロンには温度調整が無い。しかし、作りが単純な分、故障も少なく長持ちするはずだ。

記憶の中で、扇風機には玉ねぎのネットが被せられていた。小さないとこたちが、指を突っ込まないようにするためだったろう。

そのいとこたちは、回る扇風機の前で「あーあーあーあー!」とやって、声が震えるのを楽しむのである。これをやるのは、十中八九男子だと断言できる。

 


この2点だけにしておけと、常識的な私が言う。しかし、もう1人の、付き合い慣れている後先考えない方の私が、アレはどうする?コレはいいのか?大型ゴミになってバリバリと噛み砕かれるんだぞと言う。捨てられないのは、脳の問題だという説に何一つ異議を唱える気もなく、私は運搬業者を手配した。

 


持ち出すのは、祖母が嫁入りの時に持って来た長持ちと、「昭和二十九年」とどこかに筆書で書き付けのあるタンスと決めた。どこに置く、何に使うという当てもないままに 。

誰に読ませるわけでなく

祖母の家が売れた。

正確に言うと、売れることになった。引き渡しにはひと月ほどある。

 


山間の谷を縫うように流れる川の、更にその川沿いに点々と結ばれる集落の中の一つである。昔は小さな宿で、市も立ったと聞く。私の記憶では、三十軒ほどが並ぶその道筋に、旅館が一軒あった。床屋という屋号の家もあり、生鮮食品以外は何でも売っている食料品店も、電話局もあった。

生鮮食品は、野菜なら各家で必要分は作り、作らないものは融通しあっていたのか。魚は毎日、軽トラックで海辺の町から行商が来た。触れの曲は[おやじの海]であった。

音割れのしたイントロが近づいて来ると、村筋の家の主婦たちは割烹着の裾で水仕事の手を拭きつつ、がま口をポケットに道へ出る。祖母もそうだった。私はそんな祖母の後について出るのが好きだった。

お目当てがあるのではない。買ってほしいものとて、子どもの目にはないのである。ただ、その賑わいが面白かったのである。そして、村のおばさん達は、久しぶりに見る私を、それを言わねば次の言葉が出てこないかのように「んまあ〜大きいなって〜」と言い、次には「なんべえなったやあ(何才になったの?)」、または「お父ちゃんに似とるがの(お父さんに似ているね)」と来る。

何となく、ちやほやされてるような感もあり、面白がられている感もあった。今なら分かる。おばちゃん達にとって、帰省の度に少しずつ大きくなって行く孫世代の子どもなど、格好の話の種、まさに大好物だったのである。時は昭和30〜40年代。汽車駅からたっぷり1時間はバスに揺られて辿り着く村なのだ。

 


とは言え、0番国道沿いにあり、車の流れは細長い村をなぞって尽きることなく日夜続いていた。近くには有名な温泉地もあり、今では世界的に有名な和牛の、種牛の産地でもあった。村には牛を飼う家も何軒かあり、家の前の未舗装の道を牛が糞を落としながら歩いて行く。藁の混じった大きな糞を、トラクターが踏んで通る。誰も気にしない。誰が洗い流すかなど、考えもしなかったろう。私も考えなかった。夕方には、裏の河原を牛を追う農家の人たちが、ゆっくりゆっくり歩いて行く。牛と同じ速度で、川砂利を踏んで行く。

 


村の道に沿って、水路が一筋流れている。もちろん、人工水路である。水深は通常15センチほどだったろうか、流れは早い。道沿いの各家に一つずつ洗い場が割り当てられており、半畳ほどのその場所で、野菜を洗い、西瓜やラムネを冷やし、打ち水をすくう。水路は村の入り口で、Y川から分かれて引かれており、生活用水が、それこそ無窮に得られるシステムなのである。

道から3段ほど降りて洗い場にしゃがむと、目の前に石積みの壁面が昔のままそこにある。これを積んだ人々の先見の明、気力、構想力、そんなものに思いを馳せてみる。子どもの頃の記憶でも、この流れの水は冷たい。これだけで、十分ラムネが冷やせるのである。

ラムネは、祖母の家とその村とその時代を結びつけるに欠かせないアイテムであった。私が帰省する度に、斜め前の家のおばあさんがザルいっぱいのラムネやコーヒー牛乳を持って来てくれたのである。

ビン入りであることは言うまでもない。