昔の鍵は小さい。小さくて軽くて薄い。今時の、大きく厚くツルツルと滑らかで合鍵不可のハイスペック鍵と比べると、何だかロッカーの鍵のようにも思える。祖母の家の鍵である。鍵穴に挿せはしたがなかなか回らず、たまに通る人に怪しまれない程度のもたつき方で何とか開けた。

 先に村に着いて待っていて下さった運搬業者さんと2階から長持ちを下す。中は空で、大きさの割には軽く、難なく玄関に出せた。丁寧な梱包でくるまれて車に積み込まれる。90年近く前、近郷からここへ嫁いで来た祖母の輿入れ道具だ。今日、祖母自身も行ったことのない私の家へ、5時間を揺られて行く。

 ナフタリン臭い箪笥の引き出しを一段一段開けていくと、一番下の引き出しに、昭和31年の新聞が敷いてあった。毎日新聞8月11日土曜日、“日ソ交渉早くも大詰め”  “ソ連両首脳と会談/重光全権が直接打診” 、そして「運輸相は国鉄運賃の値上げを一割五分で了承」し、社説では「値上げに先立つ努力をせよ」と求める。破れそうな紙をそ〜っと開くと、下段に小さく「興安丸がナホトカで待つ帰国者114名を迎えに行くために、舞鶴港を出港した」ことが書かれている。昭和31年、私は生まれていない。父は22才、母は19才、祖母は46才。

 

 まだ車内に余裕があるので、この際、気になる物があれば何でも運びますよ、と、良心的な業者さんは良心故に危ないことをおっしゃる。悪魔はいつも親切な顔をしてやって来る。私のダメ人間のフェーズの始まりである。

 昭和テイスト満載のプラスチックの菓子入れや、祖母が使っていた壊れかけの裁縫箱、確かに鳴っていた覚えのある箱型ラジオなど、それを見れば記憶の底のおぼろな場面が、澱のようにあるかなきかにふわっと浮かんでは消える。私が選んだのは、祖母が冷麦を盛っていた青いガラス鉢だ。子供が素麺より冷麦が好きなのは、ピンクと緑の麺が一本ずつ入っているからに他ならない。しかし、素麺に比べて冷麦の方がワンランク安いことは大人になってから知った。腹一杯食べさせることを第一としてきた祖母が選ぶのは、当然冷麦だったわけだ。

 ガラスとはいえ、子供が走り回るような家でない限り、そうそう割れるものではない。私は食器などが割れると、壊れたのではなく、役目を終えたのだと考えることにしている。が、この調子だとこちらの方が先に役目を終えてしまいそうである。「死ぬまでに使い切れるか判らんなぁ、、、」と思いながら、私は更に6個のプラッシーのコップにプチプチを巻いた。

 

 業者さんの車を見送って戸締りをし、前の水路で汲んだ水を持って墓に参る。ゆっくりと村を一周し、動画に収めた。小春日和から今は薄曇り、鳥の声もしない、ただただ静かだ。取り壊して歯抜けになった家の跡地を川からの風が通り、まばらな秋草が揺れる。もう一度家に入り、祖母の立っていた台所と祖父の座っていたコタツを見た。ブレーカーを落とし、全てのカーテンを閉めて光を遮断し、埃を被ったちびた下駄の横で靴を履く。外は薄日、向かいの家には既に雪垣が組まれてあった。私は外した表札の跡を見上げ、そして、薄く軽く回りにくい鍵を閉めた。